小江戸観光名所ガイド 喜多院・東照宮エリア

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中院

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川越の有名スポット喜多院から南へ5分程度行ったところに中院があります。


天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号しました。
無量寿寺には北院、中院、南院(それぞれ仏蔵院、仏地院、他聞院と称していた)の3院がありその内の一つです。
ただ江戸時代初めの頃に川越大火があり、寺の多くの建物が焼失してしまい、中院のあった場所は仙波東照宮が建てられた為、中院は南に200m程移動した。
南院は明治の初めに廃院となり、現在は数十基の石の塔婆やお地蔵様が残っているだけになっています。現在の正式な中院の名前は天台宗別格本山中院です。


山門をくぐると正面に本堂、右手に出世観音像があります。
本堂突き当たって左に行くと、同じ境内でありながらまた違った景観を楽しめ、狭山茶発祥の地碑、鐘突堂、神殿などの見所があります。


今回、冬の写真なので写っていませんが、ここ中院にはみごとな枝垂れ桜があり、桜の名所でもあります。

注目して頂きたいのが、本堂の上方にある梁の木彫り細工と綺麗に整った屋根瓦、そして瓦に置かれた石細工。肉眼では見づらいので、あればカメラの望遠を利用してみてはいかがでしょう。


中院は日本の詩人、小説家である島崎藤村のゆかりの地であり、境内中央に移築された、島崎藤村がみきさんに寄贈した建物(茶室)(川越市の文化財指定)や島崎藤村の義母加藤みきの墓もあります。

鐘突堂前の木々が頭上で重なり合ってアーチのようになっています。つぼみもたくさんついており、春に花をつけたら綺麗なアーチになりそうです。


河越(川越)茶、狭山茶の発祥の地碑には、開山のとき、円仁が、京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりと記されています。
その後、川越や狭山の各地で本格的に栽培され、今では名産となっています。 「色は静岡、香りは宇治、そして味は狭山」と言われ、深みのある味わいが特徴です。
30年ほど前までは境内にも茶畑があり、茶摘みをしていた。との事です。



【河越茶 狭山茶の起源】
夫水茶は平安時代、博教大師 最澄和尚が中国天台山国清寺より伝来し、京都で栽培が始まる。
後に天長七年(830年)に境内に薬用として栽培された。
これが河越茶 狭山茶の起源である。
境内の「河越茶 狭山茶の起源」碑より抜粋
【中院】
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長七年(830年)慈覚大師によって創立された。
元来星野山無量寿寺(せいやさんむりょうじゅじ)のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633年)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
喜多院に天海(てんかい)僧正が往来する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安三年(1301年)勅願所(ちょくがんじょ)たるべき口宣の写しや慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
川越市教育委員会 市指定・史跡 解説より
中院は、かつて聖夜山無量寿寺仏地院(せいやざんむりょうじゅじぶつちいん)と称し、天長七年(830年)に、慈覚大師によって創立された。
当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永十年(1633年)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
境内には、川越城主秋元候の家老であった太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。
太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」(たのむのかり)を著(あらわ)した太陽寺盛胤(もりたね)の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。
また、加藤みきは、文久三年(1863年)に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母に伴われて上京し、以後大正十二年に再び川越に戻り、昭和十五年五月に七十三歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。
埼玉県立て札解説より


天台宗別格本山 中 院
  〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町5-15-1
JR埼京線・東武東上線/川越駅下車 徒歩約25分
 東武東上線/川越市駅下車 徒歩約20分
 西武新宿線/本川越駅下車 徒歩約12分
各駅から小江戸巡回バスなら「中院前」下車すぐです
本堂脇にW.Cあり

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