かわごえKOED Net 川越祭り瓦版(31号)改め「川越専科」秋だより 平成22年(2009)9月吉日

江戸まさりの山車がゆく
その一
初日のハイライトは氷川神社の神幸祭と宵山の山車飾り

祭り初日の16日(土)。午前10時、各町の会所前。道幅いっぱいに張られた曳き綱に沿って、晴れやかな祭り衣装の大人や子供が並ぶ。山車の正面では鳶頭(とびがしら)の木遣りにつづいて、バチさばきもかろやかに江戸囃子が流れる。
宰領と呼ばれる山車の運行責任者と鳶頭が間合いをはかりながら頭上たかく拍子木を二つ打ち鳴らす。ソーレーのかけ声に応じて、車輪をきしませ、ゆっくりと山車が動き出す。見物人の歓声に包まれて、感動のドラマ小江戸祭礼絵巻の始まりだ。
初日の見どころは、まず、山車行事のルーツである氷川神社の神幸祭(じんこうさい)。氷川の大神が神輿に召されて午後1時に神社を出御。蔵の町並みの一番街などを通り、町々を訪れる伝統儀式で2時ごろに市役所前へ。厳かな行列の後を氏子町内の山車が随行する様子は必見。神幸祭のお供をした山車は、市役所前で2時10分ころから曳っかわせを行う。
午後6時から7時ごろまでの宵山(よいやま)も見逃せない。17台の山車が市街地に飾り置きされる。
とくにライトアップして浮び上がった時の鐘や、蔵の町並みの一番街あたりは最大の見どころ。夜のとばりがおり無数の提灯で艶やかに彩られた山車が、江戸囃子もにぎやかに並び、いっせいに曳き出す。
天降った神を現わした人形と上層の鉾をいっぱいに迫り上げて正装した山車を見比べながら歩いてみよう。

その二
2日目の見どころは山車の揃い曳きと夜の競演、曳っかわせ

明けて17日(日)は、早朝から軽快な祭り囃子が鳴りわたる。
この日の見どころは、午後1時半からの市役所前。晴れ姿をお披露目するために前日とは顔ぶれを変えた町内の山車が市役所前を巡行し、川越市の山車と曳っかわせを行う。
絢爛豪華は祭礼絵巻を再現する江戸系川越型山車の揃い曳きは、川越祭りの一番の特徴であり、見事さは圧巻そのものだ。正調の江戸祭礼情緒を心ゆくまで堪能していただきたい。
夜のクライマックスは午後6時半ごとから9時半ごろまで中央通り、一番街通りと各交差点でくりひろげられる曳っかわせだ。山車が四ツ角などで他町の山車に出会うと、お互いに囃子台の正面を向けて競いあう。この曳っかわせに勝ち負けなどないが、囃子が入り乱れ、曳き方衆の提灯が乱舞する光景は圧倒的な迫力がある。
とくに、一ヶ所で3台、4台の山車が出会うと、それぞれの山車は囃子台を左右に回転。そのたびに観客からも大きな声援が飛びかい、川越山車祭りは一気に最高潮へ達するのだ。

その三
華やかに、粋に…宰領が取り仕切る伝統の山車運行

山車の曳き回しの先頭は先触れ役で、他町の会所や山車へのあいさつを行う。次につづくのは金棒を手にした露払い。そして色あでやかな手古舞(てこまい)衆。吉原つなぎの着物に緋ちりめんの右肩を3枚、5枚と肌脱ぐ。黄八丈のたっつけ袴をはき、名入りの提灯と金棒をもつ様子は、祭りに華をそえる小江戸小町の見せどころ。
近くで一の拍子木を首から下げた宰領が、あたりに注意をはらう。山車の曳き回しは、すべてこの宰領の合図で決めるのが川越まつりの伝統である。
山車に近い元綱のほうでは揃い衣装の若衆たちが気勢をあげている。着物や襦袢の色、柄は各町ごとのオリジナル。山車のまわりは鳶職で固め、鳶頭が二の拍子木で指図する。自慢の山車を大勢の人びとが心を一つにして動かしているのだ。
昔からの山車にはハンドルやブレーキはない。そこで四ツ角などで曲る場合はキリンと呼ぶ道具を用いる。これは山車を浮かせる大型ジャッキのこと。キリンを使う時は山車が大きく揺れるので、近くでの見物は注意が必要。

その四
起源は三百六十年前鎮守の氷川祭礼を城主がすすめてから

川越祭の起源は古い。
慶安元年(1648年)に城主であった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)が、氷川神社へ神輿や祭礼用具を寄進して祭礼を奨励。
同4年(1651年)に神幸祭が氏子の町々を渡御(とぎょ)したことに始まる。 
川越祭は元来、氷川神社の例大祭。神社の神事祭典と、氏子の上・下十ヶ町(しもじゅっかちょう)が中心になって行う附け祭りの町方祭礼行事から成立したのである。
当初の祭礼規模は小さいものだったが、その後の様式の変遷は、現在も残る資料に詳しい。 
たとえば、文政9年(1826年)の氷川祭礼絵巻。長さ18メートルにおよぶこの巻物には、神幸祭を先頭に列をなして川越城へ向かう笠鉾(かさほこ)形式の山車と踊り屋台などの附け祭りが克明に描かれている。
また、天保15年(1844年)の祭礼絵馬(絵額)では、すべての山車が一本柱型式に統一され、勾欄(こうらん)に人形を乗せているのがわかる。

その五
江戸の名工作由緒ある山車は県の指定民俗文化財

明治になると山車の後につづいて練り歩いた踊り屋台や底抜け屋台などが次第に姿を消し、川越祭の運営は山車が主体になってくる。
明治26年の川越大火では、本町と多賀町の山車と人形を焼失したが、一方、十ヵ町以外の六軒町が山車を新調して新たに参加している。
明治から大正にかけては、伝統をもつ各町でも山車、人形の改修、新調がつづき、江戸以上の豪華なものが現れる。山車の囃子台が360度水平回転する川越独自の構造(川越型)も、この頃に始まっている。
山車の主題である人形は御神像として最上段に飾る。
小狐丸(小鍛冶)や羅陵王のように能楽や舞楽に取材したものや、浦嶋太郎や弁慶、太田道灌など歴史や民話から題材を取り入れたものもある。現在、旧市街地の観光重点地域を曳き回す山車の総数は29台。
そのうち幕末から明治、大正時代に作られた10台が埼玉県民俗文化財に指定されている。
これらの山車や人形の作者は、仲秀英(なかしゅうえい)、原舟月(はらしゅうげつ)、鼠屋(ねずみや)五兵衛など、江戸で何代もつづいた人形師の名人が多い。

その六
江戸の文化、風俗を川越に定着させた新河岸川舟運

江戸時代の川越は、藩主に徳川幕府の大老や老中職を迎え、十七万石の城下町として栄えていた。
その原動力となったのは、江戸の隅田川と直結した新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)。 川越商人は、周辺地帯から集めた物資を大消費地である江戸へ売り込み財力を高める一方で、東都の文化、風俗をそのまま引き写し、 江戸と表裏一体の生活を営んでいたという。
川越祭が、山車、人形、囃子、衣装など、すべてに正調の江戸流を伝えているのも、こうした理由にほかならない。 江戸の大祭として有名な天下祭(てんかまつり)の影響を深く受け、しかも明治30年代になると、山車の構造や豪華さでは本家を追い越しているのである。
天下祭とは、元和元年(一六一五)から徳川幕府の肝入りで行っていた赤坂日枝の山王祭と、神田明神の神田祭のこと。 その双方が一年おきに祭礼を起こし山車の行列を江戸城内に曳き入れて、天下の将軍様の上覧をかなえていた。
江戸型山車の特徴である上層部分が伸縮できるカラクリ構造も、山車を城中に曳き入れる際、いくつかの城門をくぐりぬけるための工夫から成立したもの。
天下祭や江戸市中に登場した江戸の山車はその後の時代の流れの中で、関東の各地へ売り払われたりして東京から姿を消してしまう。
明治42年(一九〇九)の深川祭を機に江戸・東京の祭礼の主役は山車から町神輿へと姿が変わってしまった。 それだけに川越祭は、江戸の祭礼様式や風流をしのぶ貴重なもの。川越氷川祭の山車行事として国の重要無形民俗文化財に指定されている。

※山車の位置や移動は、町内や道路などの事情によって変更になる場合があります。

亀屋 atre川越